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東京地方裁判所 昭和62年(刑わ)1722号 判決 1988年8月19日

主文

被告人を禁錮一〇月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六二年三月一六日午前一〇時ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、東京都太田区東糀谷一丁目一八番二一号付近の交通整理の行われていない交差点を羽田街道方面から電業舎通り方面に向かい右折進行しようとしたが、同交差点の右折方向出口には横断歩道が設けられていて、同横断歩道上を横断する歩行者のいることが予想されたのであるから、前方を注視してこのような歩行者の有無を確認すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、左方道路からの進行車両の有無に気をとられ、前方注視不十分なまま漫然時速約一五キロメートルから約二〇キロメートルで右折進行した過失により、折から同横断歩道上を左方から右方に向けて横断歩行中のA(当時六八歳)に気付かず、同女に自車右前部を衝突させて路上に転倒させ、顔面挫傷及び右前腕骨折の傷害を負わせ、右傷害及びこれに伴なう手術による侵襲が誘因となって、非乏尿性腎不全から乏尿性腎不全、さらに肺水腫に至らせ、よって、同月三〇日午後一一時ころ、東京都大田区東糀谷一丁目二〇番二〇号市川第一病院において、同女を死亡させたものである。

(証拠の標目)<省略>

(弁護人の主張に対する判断)

一  弁護人は、本件事故又はこれに伴なう手術と乏尿性腎不全又は肺水腫の発症との間に因果関係がなく、したがって、被告人の過失行為、本件事故と本件被害者Aの死亡の結果との間には因果関係がない旨主張する。

二  前掲各証拠によると、次の事実を認定することができる。

1  Aは、長年(医師菱木正次作成の死亡診断書によると約一六年間)、本態性高血圧症の持病があり、昭和六〇年三月以降、開業医の高橋康之医師のもとにほぼ月一回位の割合で通院して治療を受け、降圧利尿剤の処方を受けてこれを日常服用していた。同医師のもとにおける同女の血圧値は当初が最高が一九〇、最低が一一〇で、昭和六二年三月までの間、血圧値最高が二〇〇を超えたことが五回位あり、最も高い値は二三〇であったが、毎月尿検査を受けていたものの、腎機能、肝機能には異常が発見されなかった。

右高橋医師としては、右Aが右高血圧症から腎不全になり、死亡するに至るということは全く予測していなかった。

2  右Aは、前記罪となるべき事実において認定のとおり、昭和六二年三月一六日午前一〇時ころ、本件交通事故により受傷したのであるが、これは、右Aが横断歩道を横断中、時速約一五キロメートルから約二〇キロメートルで右折進行してきた被告人運転車両の右フェンダーミラー付近が同女の額、眼こうあたりの顔面に衝突し、その衝撃により同女が路上に転倒したことによるものである。

3  右Aは、本件事故後、自ら起き上がり、被告人運転車両の助手席に乗って、市川第一病院に赴き、同病院の一般外科担当の菱木正次医師の診断を受けて、同病院に入院したが、その際、右菱木医師は、右Aについて、顔面挫傷、右前腕骨折によって全治二か月の見込みと診断した。

4  右Aは、右病院において、頻繁に血圧測定を受けていたが、血圧値は、入院時の最初の測定では、最高が二三八、最低が一〇〇であって、以後も最高が二〇〇以上であることが何回もあり、降圧剤の処方を受けてこれを服用していた。

5  同年三月一七日における右AのBUN(尿素窒素)値は、32.5になっていて、正常値を上まわっていたが、クレアチニン値は正常であったことから、右病院の医師らは、右Aが手術に耐え得るものと判断した上で、同月二〇日、全身麻酔をして、整形外科担当の川田英樹医師の執刀において、右Aの前記骨折部分の手術を行った。

6  右Aは、手術後、血圧値は相変わらず高く、最高が二〇〇を超えることも少なくなかったが、一応順調に経過していたものの、同月二九日未明、容態が急変し、気分不快、嘔気、嘔吐があり、尿量が非常に少なくなり、血圧値の最高も二三〇と急騰し、翌三〇日の午前中、菱木医師の指示により、腎機能、肝機能等の検査が行われ、同日午後三時ころ、検査結果が判明したが、BUN値は110.3、クレアチニン値が4.7と異常値を示し、尿蛋白、赤血球、白血球も多く見られ、腎機能が極めて重篤な状態と判断されたことから、その後利尿剤が投与されたが、その効果はほとんどなく、同女の容態はますます悪化し、同女は、同日午後九時五五分ころ、呼吸が停止し、同日午後一一時、死亡が確認された。

7  前記病院の内科担当医の市川知代子医師は、同月一七日以降、右Aを診察していたが、同女が高血圧症であることは認識していたものの、腎機能の低下に特段の危惧を持つことなく、降圧剤、利尿剤を処方して、同女に服用させていたところ、同月三〇日午後に診察した際、同女の顔色がよくなく、また、同女が、ふらつき、頭痛を訴えていたこと、尿量が少ないことを認識し、また、導尿したところ、チョコレート色の濃縮尿約二〇〇ccがみられ、同医師としては、同日とった心電図から心筋障害を疑った外、前記認定の腎機能、肝機能等の検査の結果から、高血圧脳症と急性腎不全の疑いを持ち、さらに、肺の湿性ラ音を認識した。

なお、同病院においては、右Aについて、自然排尿の尿量の検査を行っていなかった。

以上のとおり認められるところ、右認定を左右する証拠はない。

三  東京大学医学部法医学教室石山昱夫及び帝京大学救命救急センター小林国男の各証言及び右両名作成の鑑定書によると、前記Aは、長年の本態性高血圧症及びその年齢からして、腎予備力が低下していて、腎不全に移行する準備段階にあったところ、本件事故による受傷及びこれに伴なう手術による侵襲が誘因となって、非乏尿性腎不全となり、次第にこれが悪化して、昭和六二年三月二九日ころ、乏尿性腎不全に移行し、肺水腫を発症して、翌三〇日死亡するに至ったが、この乏尿性腎不全に移行した段階において、緊急に血液透析が行われていれば、死亡の結果に至らなかったとも考えられなくはないが、前記市川第一病院における医師らはこの処置をとらなかったものであるところ、これは一部の専門医以外の一般の医師においては、未だ、非乏尿性腎不全という概念の認識が十分でなく、さらにまた、本件事故による受傷の程度及び手術の程度が比較的軽いものであったことから、同女の腎不全を早期に発見することが困難であったこと、乏尿性腎不全の発症から肺水腫に至るまでの時間が早くその対処は必ずしも容易ではなかったことに主たる原因があり、右医師らの処置をもって直ちに医師としての注意義務に違反するものであるとまでは言えないものであると認めることができ、右認定は、菱木正次及び市川知代子の各証言によっても左右するに足りず、他に右認定に疑いを差しはさむに足りる証拠はない(なお、弁護人は、降圧剤カプトリルが、右Aについて、乏尿性腎不全に移行させたとの合理的疑いがある旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はなく、前記石山昱夫及び同小林国男の各証言及び右両名作成の鑑定書によると、右主張事実を否定することができる。)。

四 前記二、三において認定した各事実及び前記石山昱夫及び同小林国男の各証言によると、本件交通事故による受傷又はこれに伴なう手術そのものは、それだけでは通常致死の結果に至らない程度のものであったが、たまたま、前記Aが、長年の本態性高血圧症及びその年齢からして、腎予備力が低下していて、腎不全に移行する準備段階にあったところ、本件交通事故による受傷及びこれに伴なう手術による侵襲が誘因となって、非乏尿性腎不全から乏尿性腎不全、さらに肺水腫に至って死亡したものであって、その因果の過程は、社会経験上通常あり得べきことの範囲内の関係にあり、異常あるいは極めて偶然的なものではないと認めることができるから、被告人の過失行為、右Aの本件交通事故による受傷と死亡の結果との間に法律上の因果関係が存するものと解するべきであって、本件における右の具体的因果の過程が必ずしも日常一般的にみられるものではなく、また、一部の専門医以外の前記市川第一病院における医師らのような一般の医師においては、その予測が困難であったからといって、右の法律上の因果関係が否定されるものではないというべきである(なお、日常生活を営む人々の中には、健康な者のみならず、前記Aのように、持病(既往症)等のマイナスの身体的条件をもった者が多数存在し、中には重篤者もいるのであり、このことは十分予想し得るところであって、自動車運転者である被告人にとって、右Aの本件交通事故による受傷及びこれに伴なう手術が誘因となり、結局死亡の結果が生じたことについて、予見可能なものであったというべきである。)。

五  よって、弁護人の前記主張は理由がない。

(法令の適用)

一  判示所為 刑法二一一条前段、罪金等臨時措置法三条一項一号

一  刑種の選択 所定刑中禁錮刑を選択

一  執行猶予 刑法二五条一項

一  訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項本文

(量刑の理由)

本件は、被告人が交通整理の行われていない交差点を右折しようとした際、横断歩道を横断歩行中の歩行者に気付かず、自車を衝突して転倒させ、その後死亡させるに至った事案であるところ、横断歩道上の歩行者の見落としという最も基本的な注意義務に違反する危険な過失態様である上死亡という重大な結果を生じさせたものであって、被害者には何らの過失もないことにも照らすと、犯情芳しくなく、その刑事責任は重大であると言わざるを得ないが、本件交通事故により被害者に与えた衝撃はそれほど強いものではなく、被害者の本件交通事故による受傷又はこれに伴なう手術そのものは、それだけでは通常致死の結果に至らない程度のものでありながら、被害者のマイナスの身体的条件等から死亡という結果にまで至ったものであり、また、治療に当たった医師らに過失までは認められないものの、最新の医学知識に基づいた手当てがなされていれば、あるいは致死の結果がさけられたかもしれないことに照らすと、被害者の致死の結果については偶然的要素があることも否定できず、このことは、被害者にとっては勿論のこと、被告人にとっては不幸なことであったというべきであること、被告人にはこれまで前科が全くないこと、被告人は、本件後自ら安全運転に努めているのみならず、職場同僚らにも本件事故を教訓として交通事故発生のいましめとしていること、被害者との間で未だ示談が成立していないが、これは、保険会社において、本件交通事故と被害者の死亡の結果との因果関係を否定していることによるものであって、いずれ示談成立が見込まれること、その他の被告人について酌むべき諸情状も存するので、主文のとおり刑の量定をした上、三年間の執行猶予に処することが相当であるものと思料する。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官豊田健)

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